昭和40年07月26日 朝の御理解
人間の幸せというのは、それは様々な事で、一つ一つおかげになっていかなければ。それこそ思い以上の、夢にも思わなかったような、というかそういう風に一つ一つがおかげになっていって、初めて私共人間が幸せとあります。それは例えて言うなら清貧に甘んずると。例えば一生病気で暮らしても、一生貧乏で暮らしても心の持ち方一つでは、まっ幸せだと、言う様な見方もあるんですけれども。
もちろんそういう心の状態、心の上にもおかげを頂くと同時に、やはり経済なら経済の上にもおかげを頂き、健康の面にもおかげを頂き、人間関係の上にもおかげを頂き、しかもそれが思い以上に思うておった以上に、まあ言うなら夢にも思わなかった様なおかげに進展していくと、おかげな事ではあると、有り難いことではあると言う様に、そのおかげが、そのいわゆるご利益。
そのご利益が進展していくというか、育っていくというか、去年よりも、今年と言う様にです、いわゆる、日勝り、月勝り、年勝り、代勝り、と言う様にです、繁盛のおかげを頂いてです、初めて私共が、幸せと言う事が言えるのじゃないだろうかと、私は思うんですね、あの事もままになり、この事もままになり、いやこの事までは、夢にも思うていなかった様な事までが、ままになっていくという、おかげを頂いてこそ初めて、人間の幸せというのがある。ね、
例えば夜も熱くてこの頃、食欲がない。御飯が美味しくない。そういう時でも思いがけない、新鮮なお野菜を頂いたとか、お魚を頂いたと、それに適当な良い味をつけさせて頂いて、その食前に進めますとです、食欲の無かった人でも食欲を感ずる。何を食べても砂を噛むと言うておった人が、味のあるものとしてです、それから御飯を食べ付くそれから、いわゆる御飯が美味しゅうなる。と言った様な事が御座いましょう。
例えそうではなくてもです、やはり普通ではありましても、やはり美味しいおご馳走がです、様々にこしらえられて食前に出されたら、やはりつい二杯頂いておるものでも、三杯頂くと言う様に、なってくるでしょうが。ね。私共の一つの願いというものがです、もうままにならなければならんならです、それにはどうでも副食が必要だと言う事なんです。押さえが必要だと言う事なんです。
しかもその押さえがです、もうままにさえなりゃあ、白湯でもいいと漬けもんででもええと、なるほどそれもそうですけれども、それでもいいのです。それでも有難いのです。例えていうなら、病気なら病気がです、もう治りさえすればいいと、んなら借金の上に困っておる人がです、なら借金払いさえできれば良い。ね、あらゆる難儀な問題の上にです、そういう風に感じるんですけれども、ね、
それが例えば、不健康なものが健康になるというだけでもです、健康にならせて頂くその具合というものがその味わいというものがです、ね。その事のおかげでです、人間の深さ広さが出来るとか、ね、心の修行が出来るとか、それに対するところの、副産物的なおかげを頂いたがいいでしょうが。それを私は今日はお互いが、一つの願いがままになるための、様々な副食が必要であるという事。しかもその副食は新鮮なもの、しかも、その味付けかげんというものが大事であるという事。
同じ一匹の魚であっても、調理が上手な人と下手な人というたらもう大変な、味わいの違いになってくるですからね。見た目にもきれいに味も素晴らしくというようにです、それを、例えばもう、煮さえすればよい、味はまた、だだがらく出来とると。というようりも、なんとも言えん味わいにその押さえが、出来るという、おかげを頂かせていただかなければならないと言う事。ね。
それでいて私は人間の幸せと清貧に甘んじるとか、例えば病気の中にでも心の中こげな喜びを頂いてとか、成程それも有難い。けれどもそれにかてて加えた様にです、ね、金銭の上にもお繰り合わせを頂いており、健康の上にもおかげを頂いており、心の上にも喜びの生活出来ておるというのであって、本当の幸せではないだろうかと私は思う。そうでしょう。また皆んなが願っておる事もそうじゃないかと私は思う。ね。
私共が、せっかちに出来ていますもんですから、ね、もう何かその事だけ、言うなら難儀なら難儀、痛いなら痛い、痒いなら痒いという事だけがです、治ったり整ったりするのが良い様に、思っておるけれどもです、そうではない。ね。その問題を通してその事を通してです、ね、もっともっと味わいのある物にしていく事の為に、私は信心がどうでも必要であると私は思う。
昨日、昨夜の御祈念に久富繁雄さんところの長男の国男さんがお参りしてこられた。ここで、お届けをする事なんです。先生私は今日は不思議な事がございました。まあ今日は本当に夏らしい夏というか、男性的な夏というか、兎に角そのこの炎天の中に、畑にださせて頂いておりましたら、本当に自分のところの持場だけでなく、それも含めてあちらは野菜どこですから、夏野菜がいっぱい見事に出来ておる。
その中に立たせて頂いてです、神様の働きを思うたら、何か知らんけれども、感激が湧いて来た。不思議なこっちゃあるなあと、自分でも思うわけです。ね。本当に天地の親神様のおかげで、見事に野菜が、出来ておる。その野菜畑の中に立たせて頂いて、自分方の野菜が、いっぱい出来たからと言う様なではなくてです、ね、兎に角あの広々として、野菜どこですから、野菜畑の中に立たせて頂いてです、天地の親神様の御働きを思うたら、感激したとこういう。
「神様の働きを思うたら、喜びが湧いて来たというのである。わけもなしに涙が流れたと、可笑しなぐらいに先生その涙が流れました。」と。「不思議な事と言えば先生、昨日もこんな不思議な事がありました。お野菜市場に出しにやらせて頂いて帰らせてもらったところが、自動車の小さいトラックで、野菜を出荷するんですね。帰ってみたところがその、後ろの方にですね、こうもり傘いっちょぶらさがっとるち。どこでか誰かのをひっかけてきたに違いないというわけなんですね。
走ってきておるうちに。本当にどげんところわかたっちゃ持っていってやりたいと思ったけれども、名前も書いてなければ所もかいてないもんですから、まあ結局頂いたわけですけれども、ね、いつも御理解に頂くと傘は安心と仰るが、どんなに神様のご神意、深い思し召しがあるだろうと思うて、その傘を頂きましたと。「そんな先生不思議な事があったんです」と昨日お届けがあったんです。
「最近私は感じますのに、本当に神様の御働きというものをです、なにかこう身近にひしひしと感じる」と。この頃からの大雨が続きました時に、ね、丁度泥の畑のジャガイモなんかをいっぱい植えておる所に、水が入ったんですね。大水になったんです。あれはもう、ご承知のようにジャガイモというのは水につかったら、もう腐ってしまうですね。ですからもう早く振り分けてしもうてから、よか所だけ早く市場にだそうと言った様な事だったもんですから、ね、これはもうジャガイモの洪水。
どこにいっても。ですからもう値段の安い事はもう二束三文。それこそ油代も出らんような、いうなら目も当てられない状態で御座いましたとこういう。ところが帰らせて頂いておりましたら、スピード違反で捕まったと。「本当にもう御造営の大事なときに、ね、ジャガイモはただんごと安い。その帰りにはその車代どころじゃない、そのスピード違反に引掛ってらか、罰金をまとめてくるじゃろうか。
本当に鳴き面に蜂ちゃこげなこっちゃろうとこう思うた途端にです自分の心の中にですね、日頃の父の信心を思い出した」と。「お父さんが困ったとか難儀とかどうするかと言う時に「おかげが」ち。それはおかげと言うてその、態度そういう思いで、あの父の信心をいつも見たり聞いたりしておるその事を思い出させて頂いて、こういう時こそこれを大事にせなければならんと思うた」ち。
私は信心させて頂く者はここが一番大事だと私は思うんです。信心しておるから雨が降らん、信心しておるから、風が吹かんと言う事はないのですから。ね。雨が降ってしるしいと。風が吹いてえらいんだと、いうそこをです、信心辛抱させて貰う。いやむしろそこの所を丁寧に大事に頂いていくと言う様な信心。そう致しましたらです、そう思いましたらです思うただけで、昨日畑の中で感じました様な、感激が車の上で感じる事が出来たとこういうておる。
いかに神様がですね、そう言う様な思い方をお喜びになるのか、めでたもうのかという事が分かるでしょう。ね。お参りにならんから思わんならんから思わん、日頃信心にいわばこう、花が咲いた様な気が致します。そう言う様な場合にですそういう風に感じられると言う事が有難い。人間の幸せというものは、心の上に送り合わせを頂いて、いつどのような場合でもです、有難いなあ、勿体無いなあと。
いうならば、お金がなくてもいわば清貧に甘んじるという事。貧乏な中にでも有難いというものが頂けれるのだけれども、ね、それだけでは私は本当の幸せと言う事は言えない。清貧に甘んじておった人が、貧乏に甘んじておった人がです、金に不自由をしなくなったとか、これは一切の難儀がそうなんです。とう言う様なお繰り合わせを頂いてこそ始めて、幸せという事がいえるのだと。ね。
私共の一つの願いと言うものが、人間が健康になる事を願うと、ね、健康になる事を願わせて頂くことのその願いの為には、その事がままになる為にはです、どうでも、私は美味しい副食がいるという事。食欲がなくてもお白湯が美味しかったら、味付けが良かったら、それから、御飯を食べ付いて、それからご飯が美味しゅうなってままになるように、その為のその副食というものがです、ね、
その時その時にです、起きて来る所の新鮮な一つの問題と言うものをです、どの位有難いという味をつけて行くかということなんである。どの位勿体無いという、どの位相すみませんという甘さ辛さというか、そういう味わいをですその調理の仕方をです、日々けいこしておかなければならないと言う事。まだいまが24,5でしょうか、若い信心の、その国男さんの心の中にです、自分の田をとおして、畑を含めて、ね、
野菜畑の中に立たせて頂いて、見事に夏野菜が出来ていっておるその姿を思うた時にです、その情景を見た時にです、天地の親神様の働きを思うた。思うたら、訳も無く感激した。ジャガイモを市場に出させて頂いた。それこそ二束三文にたたかれた。油代もないような始末であった。しかもその帰りに、鳴き面に蜂のように、スピード違反にひっかかってしもうた、ときに感じたと。日頃の父の信心を思い出した。
ああゆう時に父はああ言うた。ああ言う時に父はああいう風な態度で、ね。こう言う様な事がです、こう言う様な事こそです、大事にしなければならないのだと、丁寧にしていかなければならないのだと思うたら、車の中で感激が湧いて来たと。私は信心とはねそういう稽古がです、日頃しっかり出来ていく事だと思うです。真に有難いという心とはそういう心だと私思うのです。なんか・・?をもろうた時には・ニコニコする有難さというのは、それは本当のものじゃないように私は思う。ね。
「本当にこげな馬鹿らしい話はなか。もうくうくういうてから何ヶ月かかってジャガイモを作った。しかもそれが雨水にかかったもんじゃけん腐れ掛った。捨てる訳にはいかんと思うちから市場に出した。出したら・・?もうこれは豚んどん食わしたほうがよかった。しかも帰りにはあなた、・・・?スピード違反に引っかかったち、もう踏んだりけったりこげな事があろうもんのと」と例えばいうような中にあってです。
そう言う様な事こそ大事にしなければならない、そう言う様な場合こそです、日頃の信心に物を言わせる時があると言う様な、稽古が私は必要じゃないだろうか。そう言う様なものがです、愈々ままになる時のです、良いおかげになった時の私は副食になるのじゃなかろうかと。いやその副食のおかげでです、ままにならなかった事がままになって行く様なです、食欲を感じなかったものがです、その副食そのよって、食欲が出る様なおかげになって来るのではなかろうかと私は思うですね。
先生そこからで御座いますと。私のお野菜がこげん頂いても良かろうかと言う様に私の方にだけに高いのですから、もう不思議と言えば不思議ですけれども、神様のおかげというのはこういうもんだろうかとういう、体験を日々させて頂いておるというのである。同じ品物を二人の者が出させて頂いたのに、片一方が五百円なら自分所は二百円。本当に倍にも高く頂いてよかろうかと言う様なおかげをそれから頂いておりますと。
いわゆる食欲が出てきた。それを押さえとして、ままにならん事がままになってきた。あれもこれもと心に願うておったです、例えばご造営を中心にしての本当に成就していく様なおかげがです、だんだん頂けて来る様になったというわけなんである。お互いがその副食になるそいう言う様な、しかも新鮮な生生しいものを頂きながらです、そういう副食的材料をです、お粗末にしておるような事はなかろうか。
そういう、どんな味付けをしたらよいかと工夫しておるような工夫するような心がです、足りないのではないだろうか。勿体無い話ではないですか。人間の幸せというものは、ね、心の上にも只今申しますように、こういう難儀な事、こういうような突発的問題をです、ね、そういうような問題こそ、丁寧に大切に大事に取り扱わせて頂かなければならんというような信心。
そういうようなあり方でならせて頂いておる心の状態を神様はお喜び下さる。その喜びが、訳が分からない感激に、なってくるのじゃなかろうか。いわゆる真に有難いという心は、神様が下さるのであり、その神様が下さった真に有難いというのが、おかげの受け物になり、ままになるところの副食にならせて頂いてです、私共が夢にも思わなかったようなおかげというのが、いよいよ浸透していき育っていき。
それがいよいよ大きな物にいうなら、日勝り、月勝り、年勝り代勝りのおかげに育って行く所のおかげに私はなるものだと確信する。金光様の御信心とは私はそういうところに焦点を置いての信心の稽古でなからなければならない。泣き面に蜂そういうような問題こそです、そういうときこそです、その問題を本気で丁寧に、ご神意のほどを分からせて頂く信心にならなければならんと思うのです。
おかげを頂かねばなりません。